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■黄柳川流杖道

道場紹介


戸山流居合道東海道場 代表 川原義之
    住所 豊橋市前田南町2丁目1−6
電話 (0532)54−7889

経歴1984年日本戸山流居合道入会
      2006年戸山流居合道東海道場開設
      

戸山流居合道東海道場稽古場所
■豊橋市南部中学校武道
■蒲郡市塩津中学校武道場

*詳しくは稽古内容をご覧下さい
 戸山流居合道東海道場は、流祖 山口勇喜先生の教えを大切に、居合道の修行を誓う仲間の会です。
 道場は会員1人1人の修道精神と、日本刀の尊厳を大切に汗を流し、技を極め、礼節を守り心身の鍛錬を行い、会員相互の切磋琢磨と和を尊重することを方針としています。
 道場では、小学生から高齢者まで、各自のスタンスで稽古を行っています。また、地域の生涯学習支援ボランティアに登録し、居合道の指導を通して地域や学校教育に貢献しています。


大道示標 
 我が打ち振る神剣 其の光芒邪念邪欲を断ち 大和と協調に徹し 自己を守り一家民族を保全し 常に礼節を守り 道義平和に寄与し 大器晩成を志し 人倫の大道を清く正しく逞しく行く 
反省 
 反省なき人生は無謀なり 世に最も貴重なるは 二度と生まれこぬ我が生命なり これを父母に受く 常に我が身に感謝し 報恩の誠を尽くし ご先祖を崇拝す 礼道ここに始まる
この心なくして家庭の楽園もなく安心立命のゆくところ無し 常に国家伝統に思いを致し
家庭伝統を尊び物質伝統に感謝し 謙虚に人を仰ぐ

生涯これ練磨なり   流汗の修行の所産 武徳となって身が光る 
燃えよ 燃えない人生は空虚である   大器晩成たれ


捨て身の心

 古歌に「山川の末に流れる栃殻も、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という訓えがある。それは山間の小川に落ちた栃の殻は、中の身を捨てなければ自分の身を浮かすことが出来ないという意味で、勝利の原則を言い表したものである。
 勝敗はその機会を捉え臆することなく、熟慮断行、身を捨てて敢行する処にその岐れ目があろう。
 天狗芸術論(丹羽鉄斎著)にも相手に向かって生を忘れ、我を忘れ、念動せず、無心で自然にまかす境地に至れば変化、応用が自在無碍である。といっている一言にして言えば「生を捨てて生を活かす又は「死中に活を求める」と言うことである。
 昔からよく「相手を鍔元で切る気持ちで打て」という訓も一つに己を捨てて打ち掛かれと言うもので、その思い切った心境が「死中に活を求める」所以のものである。

自信

 自信とは自己の価値、能力を信じることで、処世の中で最も大切なものであるが、自信が嵩じると慢心が生まれ易いものである。真の自信とは、たゆまざる平素の稽古や修行の中に幾度か辛酸を舐め、苦行を経た尊い積み重ねが自ら自信を生むのである。
 自信を得るためには自尊心を持って何者にも恐れず、また勝とうとも思わず、時に腹を据えて相手の前に身を晒すことや、負ける心算で当たることも、やがては恐怖心を去り自信を得る一方法であると思う。

水月の位

 塚原卜伝百首の中に「映るとも月も思はず 映すとも水も思はぬ広沢の池」という歌がある。その意味は歌詞の示す通り、月は水に映ろうとも思わないし、水も又月を映そうとは思わない、お互い無心の中に自然に生ずる美の調和と実に無心自然の応用を引用して剣の真髄を訓えたものでこの無心の境地を水月の位という。
 即ち剣をとる者は、あれで勝とう、これで勝とう、と勝つ方法のみに心を労するものではなく、只無心無欲の境地から発する心技でなくてはならないことを戒めたものである。
石火の位
 五輪の書「水の巻」に石火のあたり、ということが説かれている。要するに間髪を要れずということであろう。即ち、火打石は、石と鉄が当たった瞬間に火を発する、これは石が先か、火が先か定かではない。この呼吸が勝利のこつである。と武蔵は訓えている。
間合と間
間合いとは、一口に言って自分と相手との距離を、間とは自分の剣先から自分までの距離を自分の間と言い、相手の剣先から相手までの距離を相手の間と言う。
 間合には一足一刀の間合、或いは遠間、近間等の種類がある。一足一刀の間合とは通常の間合であって一歩踏み込めば相手を打突することができ、一歩退けば相手の打突を外し得る距離で、我が太刀下三尺、相手の太刀下三尺、計六尺の距離、即ち互いの剣先が切先から約10cm程度交叉して構えたところを言うもので、これを内ち間とも言う。
 遠間とは、一足一刀の間合より更に遠い間合のことでこれは大事な試合等の場合、殊更に間合を遠くして、相手の隙をみて一足一刀の間合に入り勝負を決する場合、又は教育の必要性からも用いられる間合である。
 近間とは、一足一刀の間合より近い間合で、特に初心者の指導等に用いられる間合である。
以上が間合に対する一般的な解釈であるが、各人の体格や技量の度合、特に突進力、その時点における攻防の状況によって異なるものである。

虚実

「虚々実々」と言う言葉がある。虚は無いようが空で言いかえれば隙のあることである。実とはその反対で総てが充実した形で少しも隙のない状態である。
 武道においては相手の実に対して虚をもって当れば空しく敗れる。実に対して実を持って当れば相打ちとなる。従って相手の虚実を機敏に洞察して、相手の実を避けて虚を打つ、又は実を備えて虚に変じ、虚を示して実に転ずる等虚実、運用の勘が大切である。
流祖  山口 勇喜
北海道北広島市仁別 広道館
戸山流居合道は、1974年(昭和49年)山口勇喜先生の提案により全日本戸山流居合道連盟として発足以来30年間、斯道の修道理念による健全な居合道精神に基ずき、多くの共感を得た剣士が今や全国にその波紋を拡げ、他に類を見ない精神修養道としての発展に至っているところであります。北海道広道館の戸山流発祥碑
 
戸山流「理想像」
戸山流居合道は、わが国始国の原点に、その発祥を求め、三種の神器の表わす、智、仁、勇、を支柱とする人間形成を理想とする。これが為、「草薙之剣」を魂とする日本刀の尊厳を通して、心技を練磨しわが身を守り、一家を守り、国家を守り、何事も平らかに治むる鞘の内一元化を希求すべく、神州士気の源泉たる戸山に、その修道の場を求め正しい日本精神を涵養し、日本人としての誇りを堅持し得る健全な心身の育成に努め、もって道義世界平和に寄与することを最高の理想像としています。

戒心
剣は戒めであり、その真髄は善であり、美であり、聖である。
斬れることが生命であり、美に流れ本質を失ってはならない。
鞘の内一元化とは、いかなる状況下にあっても対処しうる心意であって、大和であることを忘れてはならない。
             髄

守 破 離

「守 破 離」とは、修行上の古い教訓である。他の武芸にも用いられる道の修行における合理的過程を示すもので「守」とは初歩の過程から師の教えを忠実に守り、これを体得することである。「破」とは守の段階を基礎として更に進んで新しい工夫、研究鍛錬を重ねて守の段階を抜け出た状態を言う、「離」とは破の段階が一段と進み心技共に自由無碍の境地に達し道としての一家をなす状態をいうものである




 先とは言いかえれば機先を制するということである。 先には古来「三つの先」があり先先の先、先、後の先である。
 先先の先 別に「掛りの先」とも言っている。これは相手の先が、まだ形に現れないうちに、その表情や動作などから察知して、自分から機先を制して打突することで、相手の先に先んずる先である。修行の極致であり最も大切な先である。
 先 別に「先前の先」又は「対の先」とも言う。これは相手が先を形にして現して打突してこようとした場合、その効を奏する前に早くも我方から先をとって打突し勝を制することで、互いに懸り相対抗して勝つ故に「対の先」とも言うのである。
 後の先 別に「先後の先」とも言う。これは相手が先をとって打突してきた場合、これを払ったり、摺り上げたり応じたり、切り落したり等して相手の隙の先じたところを打突することで、相手の先の後の先ということで「先後の先」とも言う。


理事一致
 理業一致とも言われる。学問も実践が伴ってこそ始めてその価値が現るものである。
 理は理論であり、事は一口に言って技である。理を離れて技はなく、技を離れて理はない。理の伴わない技は進歩が遅れ、技の伴わない理は空理空論に終わる。道の修業にあたって欠くことのできない要素である。